本当にあった恐ろしい事件・未解決事件を紹介

本当にあった恐ろしい事件・未解決事件を紹介します

日本凶悪事件史

津田塾大学女装父親替え玉受験事件
1975年(昭和50年)2月13日、名門私立女子大学の津田塾大学の入試が行なわれた。受験生の中に、どう見ても女子高生には見えない異様な人物がいた。身長165センチ、レンガ色のパンタロンに白いタートルネックのセーター、派手な縞の七分コート。ここまでは普通だったが、フケすぎていた。顔色も悪い。

"彼女"がかなり人目をひいたのは確かだった。用務員のおばさんたちも「今年は変なのが来てるねえ」と噂し合ったほどだった。

"彼女"の隣の席の受験生は試験が終わった直後、監督官に訴えた。

「隣の席の人なんですけど・・・・・・あの人、男じゃないかしら」

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「イエスの方舟」事件
1965年(昭和40年)3月、東京都昭島市に住むある家族から捜索願が出された。

20歳になる娘が宗教団体の「イエスの方舟(はこぶね)」へ入信したため、家出してしまったというものだった。同じように入信した女性の家出が相次ぎ、1977年(昭和52年)までに7件の捜索願が出されていた。 

「イエスの方舟」とは千石剛賢(せんごくたけよし)が主宰する無会派のキリスト教教団「聖書研究会極東キリスト教イエスの方舟」のことで、東京都国分寺市恋ヶ窪に建てたテント張りの住居兼会堂を拠点として府中市、小平市などの多摩地区を転々としながら布教活動を行っていた。
やがて、家出した信者とともに共同生活をするようになった。 

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予備校生金属バット殺人事件
【 事件発生 】

1980年(昭和55年)11月29日午前2時半ころ、川崎市高津区の自宅で、受験浪人2年目の予備校生の一柳展也(いちりゅうのぶや/当時20歳)が就寝中の両親を金属バットで殴打して殺害した。

110番があって現場に一番乗りした高津署の捜査官はドアを開けて寝室をのぞきこんだ瞬間、息をのんだ。

和室6畳の寝室には、父親の幹夫(46歳)はどっぷりと血を吸った布団の中で、やや顔を左に向けて横たわっていた。額の上から頭頂部にかけ、頭蓋骨がパックリと口を開け、血しぶきが天井まで達していた。さらに、奥の8畳間には、母親の千恵子(46歳)の死体があったが、こちらは脳漿までが辺り一面に飛び散っている。

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松山事件
松山事件(まつやまじけん)は、1955年(昭和30年)10月18日に、宮城県志田郡松山町(現大崎市)にて発生した放火殺人事件と、それに伴った冤罪事件である。
四大死刑冤罪事件の一つ。

概要

1955年10月18日、宮城県志田郡松山町の農家が全焼し、焼け跡からこの家に住む一家4人である家主(当時54歳)、家主の妻(当時42歳)、夫婦の四女(当時10歳)と長男(当時6歳)の焼死体が発見された。
遺体解剖の結果、長男以外の頭部に刀傷らしきものが認められ、殺人および放火事件として捜査本部が設置。

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日大ギャング事件
1950年(昭和25年)9月22日、東京都千代田区の派出所に、血だらけの男が「強盗に襲われた」と駆け込んだ。

男は日本大学本部会計課員の八木下茂(当時20歳)、用務員の金山忠一(当時62歳)、日本大学の運転手の佐藤清寿(当時40歳)の3人で、日本大学本部職員100人余りの給料191万円を富士銀行(現・みずほ銀行)神田支店と千代田銀行(現・三菱東京UFJ銀行)小川支店から下ろして、ダットサンで帰校途中、強盗にあった。

強盗犯人は、日本大学本部詰め運転手の山際啓之(やまぎわひろゆき/当時19歳)で、山際は、帰校途中のダットサンに「ヘイ・スタップ」と米語で叫んだ。運転手の佐藤は、職場の同僚ということで気易く車を停めて山際を乗せたが、山際は車に乗り込むと佐藤の脇腹にジャックナイフを突きつけた。
佐藤は仕方なく言われるままに車を運転した。
山際は大手町労働省前で停車を命じ、八木下の右首筋を切りつけ、給料入りのボストンバッグを奪い、3人を車外に放り出し、そのまま車を運転して逃走してしまった。

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「ひかりごけ」事件
太平洋戦争まっただ中の1943年(昭和18年)12月3日午後1時ころ、日本軍暁(あかつき)6193部隊所属の徴用船「第五清進丸」(約30トン)が、暁部隊の廻航命令により北海道根室港を発ったが、翌4日、知床(しれとこ)岬沖合で大シケに遭い、消息を絶った。
この船はオホーツク海を北上し、宗谷岬を迂回して日本海を南下して小樽へ向かう予定であった。船には7人の乗組員がいた。

2ヵ月後の1944年(昭和19年)2月3日午後4時ころ、知床岬から16キロメートルほど離れた羅臼(らうす)郡羅臼村字ルシャ(現・羅臼町岬町)で、漁業を営む老人宅に、外套(がいとう)の上にムシロを巻きつけた異様な格好の男が倒れ込むように入ってきて、助けを求めた。

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向島連続少女殺人事件
向島連続少女殺人事件(むこうしまれんぞくしょうじょさつじんじけん)は、1936年(昭和11年)に東京市向島区(現在の東京都墨田区)において発生した18歳の少年による殺人事件。
なお少年が犯行を思いついたのは愛読していた探偵小説からだという。

事件の概要

1936年4月17日 向島区吾嬬町 10歳の少女が自宅横の空き地で惨殺された。

1936年5月31日 向島区吾嬬町 3歳の少女が自宅で就寝中に刺殺される。 

いずれも現場が近く一人で留守番している少女の頸部を刺すなど殺害の手口が酷似していたが、犯人の手がかりが少なかった。

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八海事件
1951年(昭和26年)1月25日午前9時ころ、山口県熊毛郡麻郷(おごう)村(現・田布施町)字八海(やかい)で、早川惣兵衛(64歳)とその妻のヒサ(64歳)の死体が隣人によって発見され、通報で警察が駆けつけた。

夫は寝室の布団の中で、顔、頭、全身をめった斬りにされ、妻は隣室との間の鴨居に首を吊って垂れ下がっていた。
状況から、夫を殺した妻が自殺したものと見られていた。
だが、刑事たちは首吊りを偽装工作と見破り、夫婦殺し事件として捜査を始めた。
現場検証が行われ、物色の痕跡も見つかり、台所では焼酎の瓶が見つかった。
瓶から近くに住む経木(きょうぎ)製造業の吉岡晃(当時22歳)の指紋が検出された。
吉岡は、酒と女が好きな不良青年で、金に困っていたことも分かった。直ちに重要参考人として指名手配された。

1月27日、麻郷村の隣の柳井市内の遊郭に居続けていたところを逮捕された。
厳しい追及に犯行を認めたが、内容は次のようであった。

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